千住物語 


武蔵国南足立郡千住桜木花道 蔵研究会 大江明俊 


読売新聞で建築懐古録十年程前にという連載がありました。
現在は建築懐古録という名で本にまとめられております。
その中から千住に関係するところを紹介させて戴きます。内容は当時の新聞記事のままです。


「名倉医院」旧診療所   足立区千住五の二十二の一

 骨接ぎの名声支えた大黒柱

 足立区千住の旧日光街道沿いに、かつて「江戸四宿」の一つといわれた千住宿があ
った。参勤交代の諸大名は、ここで旅装束を解き、江戸に入った。その北はずれ、荒
川土手に面した一角に、往時をしのばせる古い木造家屋が残っている。江戸時代から
骨接ぎの名医として、関東一円に知れ渡った「名倉医院」。骨接ぎといえば名倉、名
倉といえば骨接ぎの代名詞となり、戸板や荷車で運ばれてくる患者でひしめきあった
。今も整形外科病院として、その伝統を受け継ぐ同医院を訪ねてみた。

●創業二百年、広い敷地ー三十畳の診療室に一日四百人
「まだ市電が千住大橋まで走っていたころ、朝になると電車を降りた患者が、ぞろぞ
ろと旧日光街道を歩いていた。人力車で来る者もいたし、動けない重傷患者には専門
の宿屋もあって、そりやもう、大変なにぎわいでしたよ、土地の古老、小泉貞太郎さ
ん(七十八歳)が、大正から昭和にかけての名倉医晩周辺の情景を懐かしそうに語っ
てくれた。

 その名倉医院は、旧日光街道から分岐した下妻街道沿い。手前に、昭和三十七年に
建てられたモダンな三階建ての整形外科病院があり、そのわきに古風な長屋門。文字
のくすんだ「名倉医院」の看板から、この奥が旧診療所だとわかる。当時の患者は、
この長屋門をくぐって、左手の受付で木製の番号札をもらい、右手の待合所で玄関の
開くのを待った。

 昭和六十年に亡くなった名倉家の当主、重雄氏(元東京厚生年金病院長)の未亡人
で、二・二六事件で暗殺された高橋是清の孫でもある恭さん(八十六歳)に、今は使
われていない診療場を案内してもらった。まず、驚いたのが、玄関から見渡した座敷
の広さ。帳場格子の会計所や湿布所を含めて三十畳はある。太い柱や天井の梁は、す
べてクリの木。木肌がむき出しになった大黒柱は、大木をまるまる一本使ったもので
、「磨かなくても黒びかりする」という。安政の大地震(一八五四)でも大丈夫だっ
たというから、しっかりした造りですねと恭さんも感心する。ここで一日四百人も
の患者をみたといわれ、床の間の隅には、名倉医院特製の黒膏を巡ったという「負い
櫃」が目にとまる。うるし塗りの三段の引き出しに、鎌倉彫のような花の意匠をほど
こした観音を開きの戸が付けられ、薬箱とは思えない立派さだ。

 同医院の創業は、明和年間(一七六四ー一七七二年)。診療場や長屋門は、百五十
年以上も前の建築といわれ、幕末には榎本武揚や勝海舟らがたむろし、約三万平方メ
ートルもあった広大な敷地の茶座敷や築山で遊んだ、とも伝えられている。今は敷地
が約二万平方メートルになったが、木造家屋はほとんど完全な形で保存されている。

 同医院のもう一つの特微は、遠来の患者や骨折などの重傷患者が宿泊した専門の患
者が、最盛時には五軒もあったことだ。萬屋、成田屋、大原屋、金町屋、柳屋がそれ
。いわゆる入院病棟代わりで、宿屋の主人は骨接ぎの免状を持っており、午前中は名
倉医院で診療、午後になると宿屋へ帰って宿泊客の治療を行った。

だが戦後、健康保険制度が整い、病院でなくては治療できなくなり、徐々に宿屋は消
えた。今は、旧全町屋の建物だけが残り、軒灯が当時の面影を語っている。
「大正時代は、横浜から戸板に乗せて患者を連れてきたというから、評判が良かった
というのは碓かでしょうが、そのころは接骨医、整骨医がいなかったのでは。今と違
って交通事故もないので、それほどひどい骨折もなかったはずですから」と、かつて
の人気の背景を説明するのは、名倉整形外科医院に勤める脇屋寿人医師(六十四歳)

 その脇屋さんによると昔も今も施療法は大差ない。塗薬(湿布薬)そのものは、ニ
ワトコ(薬用植物の一種)のむし焼きをすりつぶし、キハダ(同)の粉を混ぜて、日
本酒と米ののりでねり上げた特製黒膏のほか、一般の白い塗楽を使う程度。骨折を治
す「整復」も、同じように医師の腕が頼りだ。違うのは、昔はレントゲンや麻酔がな
かったこと。「昔は痛がろうが、苦しもうが、力で思いっきり引っ張った。だから骨
接ぎ師が複数必要だった。多分、昔の名倉医院では、「ギャーッ」という悲鳴がいつ
も響いていたんでしょうなあ」。脇屋さんは大声で笑った。
                          (昭和六十三年十月九日)

横山家住宅(足立区の有形民俗文化財)  足立区千住4の28の1


JR北千住駅を降りて、駅前通りを西へ約二百メートル、サンロ-ドを右折して「五
の日商店街」を突き抜けると、右側にデンと構えた商家が眼前に立ち並ぶ足立千住の
中心部。その中で、瓦ぶき屋根のいかにも古風な、伝馬屋致の面影を今にとどめのる
が、紙問屋「松屋」の七代目、横山左吉さん(六十三)の住宅である。百二十年の伝
統と歴史を、無言のうちに語り継ぐ風格が漂っている。

 今は、玄関口になっている正面入り口。ケヤキ材の重々しい引き戸を開けると、土
間と帳場が目に入った。土間は入り口より一段低くなっており、す-っと吸い込まれ
るように足を踏み入れてしまう。

 応対に出た横山さんは、「お客様を迎えるのに好都合だったのでしょう」と、説明
してくれた。なるほど、商売に徹した発想で、土盛りをして雨水や湿気を防ぐ一般住
宅とは根本的に造りが違う。

 土間の左手に、太いケヤキで枠どりされ、畳の敷かれた帳場がある。傷がつかない
ように守るためだろうか、角には鉄鋲で鉄板が打たれ、重々しい光を放っている。「
昭和十一年、五十八年の二回にわたって、応接間、客室、子供部屋は改築したのです
が、ここだけは昔のまま残したんです」と横山さんが言うように、帳場を囲む千本格
子と書院窓は、「商家の書院造り」と形容される万延元年(一八六○)の建築物の名
残を十分に伝えている。

 横山邸の敷地は、間口が十二間、奥行きが五十六間と鰻の寝床のように細長い。か
つて、間口の広さが課税の基準になっていたためだという。

 横山家は代々、農家から地漉紙を仕入れ、日本橋方面の小売店に品物を卸す間屋だ
った。戦前まで「浅草紙」の名前で出回っていたが、生産者の数は千住局辺が圧倒的
に多く、農家の副業として貴重な収入源になっていた。
「私が子供のころ、番頭さんや小僧さん、女中さんが何人もいたのを覚えています。
それが、機械すきによる大量生産で、廃業に追い込まれました」と、横山さんは昔を
懐かしむように話してくれた。

 帳場から、電話の部屋、客室、御蔵前と続く長い廊下を渡ると、天保元年(一八三
○)に建てられた蔵に行きつく。古色蒼然たる内部は、まさに鷲きの世界だ。

 文政時代に使われた什器入れ。山岡鉄舟が書いた「地漉紙問屋」の木製看板。階段
に引き出しを取り付けた「箱段」。さらに、戊辰戦争の際、上野の戦いで敗れた彰義
隊が逃げる途中、腹いせに切りつけたとされる荷物置き場の柱の傷、空襲で屋根を突
き破った焼夷弾の跡一など、近代史をくぐり抜けてきた証拠となるものも少なくない


 横山家は民家としては数少ない「足立区の有形民俗文化財」に指定されており、社
会科の見学で訪れる小学生も多い。

 百年を越えて生き続ける歴史的な建物に、近所の人たちから「宿場町・千住を知る
最後のものになりそう」という声があがっている。

銭湯 大黒湯  足立区千住寿町32の6

 
 湯煙に絵入り「格天井」 

 荒川と隅田川に挟まれた足立区千住地区。戦災を免れた常磐線北千住駅近くに昭和
初期に建てられた銭湯がある、と聞いて訪ねてみた。由緒正しきお宮様と見まがうば
かりの大きな屋根がドーンとそびえ立っている。その名も「大黒湯」。地価高騰や内
プロの増加で都心では姿を消しつつある公衆浴場だが、ここには東京の銭湯のひな形
ともいえる威容が残されている。この雄姿を見たくて十キロも離れたところから入り
に来る人や、大黒湯のそばに引っ越して来るファンもいるほど。ふれあい豊かな下町
の銭湯は、今なお健在だ。

●豪壮な官造り、引っ越して来たファンも

 北千住駅からサンロード商店街を抜け、日光街道を越えると、右側に大黒湯がある
。黒瓦の土塀の中央に、ドッシリと重たそうな入り口の屋根がかぶさっている。正面
から見ると、入り口を含め三重の屋根だ。一番上の屋根の下は、木の格子でできた壁
。いかにも古そうだ。   
 現在の経営者、清水久司さん(四十五歳)は、「私で五代目。と言っても、私の父
(故幸作氏)が昭和三十二年にここを買って四代目になったので、その前はよく分か
らないんです。でも近くのお年寄りに聞くと、昭和四年
の建築といいます。名前は最初から大黒湯でした」と話してくれた。

 なぜ大黒湯なのか?-入り口の柱中央を見ると分かる。大黒様が彫り込まれている
のだ。右手に打ち出の小槌を持ってニッコリほほ笑んでいる。その優しい目が、一日
の汗を流しに来る入浴客一人ひとりに「お疲れさま。ゆっくりどうぞ」と語りかけて
いるようだ。

 大黒様は、もう一人、左側の上塀の上にもいる。それと対をなす右側の土塀には、
タイを釣り上げてニコニコ顔の恵比寿様が鎮座ましましている。

 この表玄関にすっかりほれ込んで、「大黒湯は、束京の銭湯の王様です」と言い切
る人がいる。目黒区原町二丁目に住む町田忍さん〈三十九歳〉。本業は革製品などの
デザインを手がける造形作家だが、銭湯巡りが趣味で、すでに全国約六百か所を見て
回ったという。

 その町田さんによると、手前の富士山形のカーブを描いた屋根を唐破風、そのすぐ
上の三角屋根を千鳥破風というが、この二様式の屋根が重ねてある銭湯は東京でたっ
た一軒、この大黒湯だけ。もともとは、江戸時代の寺社建築に流行した様式で、今で
も神田明神や深川八幡宮にみられる典型的な宮造りだ。

 町田さんは、「この玄関は本当にぜいたくな造りをしている。唐破風の下には鳳凰
の透かし彫り、その上には小槌の形に打ち出した銅ぶきの鬼瓦がある。職人さんが作
った品物でしょう」と装飾の見事さを熱っぽく語る。
 大黒湯の華やかさは、入り口だけではない。中へ入って脱衣場の天井を見上げると
、格子模様になっていて、格子の一つひとつに草花の絵が描かれている。男湯女湯の
天井合わせて九十個ある格子の絵がそれぞれみんな違っている。「この天井は、格天
井といって日本建築では最高のもの。絵のある格天井なんて全国の銭湯探してもない
ですよ」と町田さん。

 大黒湯を一目見て感動し、わざわざ引っ越して来た人だっている。同湯から徒歩一
分のアパートに住む早稲田大学法学部四年の戸村登君(二十三歳)もその一人。「二
年前、『こんな索暗らしい銭湯に毎日入れたら』と思って初めて見たその日に引っ越
しを決めました。この豪壮な雰囲気がたまらない」。そのホレ込みように驚かされて
しまう。

 地元の人はもちろん、町田さんや戸村君のような熱心なファンを引きつける大黒湯
。足立区内でも昭和四十三年の百五十八軒をピークに、現在は百二十七軒と銭湯が減
り統ける中、「当面、建て直す計画はありません」と
う清水さんの言葉はたのもしい。「内ブロがあっても、タ方には銭湯へ行ってゆっく
りつかる」という下町の生活パターンがいつまでも残って欲しい、との思いにかられ
た。
                                   (平成
元年十一月二十七日)


NTT足立電話局  足立区千住中居町15の1

  
 見飽きぬ美しさ・風格
 
 国道四号線(日光街道)からちょっと入った千住の町に、こんなしゃれた建物があ
るとは知らなかった。NTT足立電話局だ。古びたレンガ風の茶色のタイルが、機能性
重視の現代のビルにはない落ちついたムードを漂わせている。初めてこのビルの前を
通りかかった人はまず間違いなく、足を止め、見上げるだろう。しぱらく見てい
ても飽きない美しさがある。「殺風景な町並みの中で、風格のあるこの建物は町のシ
ンポルです」。
 同電話局の杉本光朗局長(52)は町の人の声などをもとに、こう断言した。どこ
がそんなにいいのか。直線と曲線の微妙なバランスに秘密がありそうだ。


●壁面に手作りの味ー曲線のバランスはドイツ表現主義、
 昭和四年完成今なお〃現役〃
 
 第一、玄関が通りに向かって設けられ、角が普通のビルのように直角になっていた
ら、かなり違った印象を与えていただろう。この角の部分のゆるやかな曲線が、ビル
にゆったりとした広がりを与えている。さらに車の出入り口や外壁の隅、窓の縁など
に徹底して丸味がつけられている。この丸味と、年月を経たタイルのざらっとした感
触が、不思議と温かな感じをかもし出しているようだ。

 設計者は、日本武道館の設計で知られる建築家の故・山田守さん(一八九四-一九
六六)。山田さんは大正九年に東京帝大建築学科を卒業後、当時の逓信省に入省、昭
和二十年に退官するまで各地の郵便局や電話局の設計にあたった。足立電話局はその
ひとつ、昭和四年五月の完成だ。

 当時の名称は、千住郵便局電話分室。鉄筋コンクリート造り二階建てで、延べ千三
百六十六平方メートル。工費は十八万二百七十九円だった。
 今は一、二階とも事務室だが、当初は二階に交換機が据えつけられていた。山田さ
んの名誉のためにも付け加えるが、屋上の無粋な建物は後年、増築された会議室。

 この様式は表現主義の設計といわれている。今世紀初め、自然主義や印象主義への
反動として、ドイツで始まった表現主義は、様々な芸術分野に大きな影響を及ぼした
。建築の世界では不等辺の方形や三角形、半円形、曲線などが好んで用いられた。

 日本での表現主義建築の代表的な例は、山田さんの設計した東京中央電信局(大正
十四年完成)だった。パラボラ形の屋根を持つなど、「日本の現代建築の初期をかざ
る傑作」(「山田守建築作品集」から)とされたが、四十四年七月、取り壌されてし
まった。これほどの強烈さはないものの、足立電話局は、山田さんの初期のみずみず
しい作品だ。

 NTT東京台東支社の名和清,建築課長(四十五歳)は、「山田さんの設計は、当時
の建築界に新風を巻き起こしたんです。この局舎も風格があって、素晴らしいもので
す」と話す。「見て下さい、壁面のこのタイル。手作りの味ですね。こういうタイル
は、今はもう焼けないでしょう。この建物は、今後とも残してゆくことにしています


 杉本局長が一枚の書類を取り出して見せてくれた。
 昭和五十七年十二月二十一日付の日本建築学会からの通知である。
 
 それによれば、足立電話局は
 ?姿、形がいい
 ?すぐれた建築家の設計である
 ?その時代の建築様式をよく示している
との理由で「建築学的にみて貴重」といい、「今後とも大切にご使用下さい」と求め
ている。

 よく磨き込まれた階段の手すりの黒い大理石。明るい塗装の事務室内。同学会の通
知をまつまでもなく、十分に手入れされている局内にはゴミひとつない。

 半世紀にわたる歴史の中で、どれだけ多くの人がこのビルに入ったのだろう。この
名建築が今なお〃現役〃の局舎であることが、何よりもうれしい。

大橋眼科医院  三角屋根の〃骨とう館〃  足立区千住3の31

 
 
  JR北千住駅から西へ約二百メートル。駅前商店街の巨大なア-ケードが途切れた
ところに、ヨーロッパの古い館のような建物がある。都内から由緒ある建築物が失わ
れて行くのを悲しんだ地元の眼科医院の院長夫妻が「子供たちに古い時代の建物の夢
と楽しさを知ってもらいたい」と大正六年からあった西洋館の医院を、さる五十七年
に昔の建物のイメージを残して建て替えたものだ。しかも、バルコニーから街灯まで
、各所に三十年がかりで集めた都内の古い建物の部分品が多数取り込まれており、さ
ながら〃骨とう館〃の趣がある。

●明治、大正の建材一千点集め古いイメージを再現

「建物が完成、前庭にまだプルドーザーが入っていたとき、前を通った近所の奥さん
たちが、『とうとうこの家も古くなって、壊されることになったのね』と話してた。
それを聞いて、私は本当にうれしかった。それほど新医院が、以前の古い建物と同じ
ように見えたんですからね」。医院の経営者で、鈴木志賀子院長(六十二歳)のご主
人英夫さん(六十五歳)は、そう言って顔をほころばす。

 大正六年から取り壌されるまでここにあった旧医院の建物は、木造の二階建て。柱
の一部を外壁に出したハーフティンバー様式で、ドイツの民家を思わせる三角屋根が
三つ並んでいた。建てたのは初代院長の故大橋重義さん(大正十五年死去)。慈恵医
大の前身の医学専門学校を卒業した眼科医で、開業に当たり、義兄の彫刻家、飛田朝
次郎さん(故人)にデザインを依頼したという。

 当時は、旧日光街道沿いに商店があるだけで、周囲はムジナも出たという畑。そこ
ヘ、トンガリ屋根に待合室の壁がピンク色という洋館が出現したから、「医院の名前
は知らなくても、『三角屋根のお医者さん』として知れわたり、埼玉県や千葉県から
も患者が来て、畳敷きの待合室の床が抜けたほど、と聞いてます」と、重義さんの長
女の志賀子さん。

 その名物医院を建て替えざるを得なくなったのは、昭和五十年代に入って。建築後
六十年が経過し、トタン張りの三角屋根の間から雨漏りがひどくなったためだ。昔の
イメージを残して建て替えたのには、英夫さんの子供時代からの夢があった。

 英夫さんは、豊島区の大塚出身。昭和初期、通っていた豊島第一尋常小学校の近く
に一軒の洋館があった。白い板壁に赤いフランス瓦の屋根。金髪の女の子一家が住ん
でいた。周囲のくすんだ色の壁や屋根の民家に比べ、そこはまるでおとぎの国のよう
に見えた。

 英夫さんは、昭和二十五年、志賀子さんと結婚、大橋医院に住んだ。ある朝、窓を
開けると、向かいの歩道に近所の千寿第一小の子供たちが、ズラリと並んで〃三角屋
根のお医者さん〃の家を写生していた。英夫さんは「ああ、こういう西洋館は、子供
たちに愛されてるんだな」と痛感、「建て替える時は元のように」と心に決め、そん
な子供たちの夢を育てるためにと、古い建物の部品収集も始めた。

 都内で明治、大正期の建物が取り壊されると聞くと、必ず出かけて、不用となる部
分品や建材などをもらい受けた。集めた中で最大のものは、高さ六メートル、昭和通
りにあった鉄製の街路灯。四十年代末、浅草の映画館「大勝館」がボウリング場へ改
装される際には、室内の壁面飾りをもらった。東大の赤門前にあった明治時代からの
たぱこ屋が壊される時、日参してそのバルコニーの欄干をもらって来た。約三十年か
かって集めた部品は、約百か所から千点以上。新しい医院は、鉄筋コンクリート三階
建て。延べ床面積三百六十平方メートルで、一階東側が待合室と診察室。二階以上は
居宅。昔と同じようなトンガリ屋根は、二つある。

 昭和通りの街灯は、高さを一メートル縮めて医院の前庭に立ち、大勝館の壁面飾り
は外壁に。入り口二階のバルコニーは、たばこ屋さんのものだ。集めた部品の相当数
が、それぞれの〃役どころ〃を得て、立派に使われている。「建設の途中、毎日、小
学生の女の子が、門の所に立って、工事を見ていた。そして『ここは、王子様とお姫
様が住むのね』って聞くんだね。昔のイメージに建て替えて本当によかったと思いま
した」。英夫さんの夢は、間違いなく子供たちに伝わっている。



 読売新聞掲載日時不明。おそらく12,3年前です。

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