千住宿の歴史と文化
・・・・・また何か新しい発見があるかもしれない、そんな旅の出発点 千住大橋に立つ・・・・・
千住大橋は江戸の玄関、旅立ちと別れの境界
奥の細道へ旅立った芭蕉も、徳川幕府最後の将軍慶喜も、ここで江戸への決別の涙を流したと伝わります

 東京都足立区千住
交通 : 千住大橋駅・関屋駅  京成線 / 北千住駅・・・JR常磐線・営団地下鉄線・東武線
 

千住宿は 五街道 奥州・日光街道 第1番目の宿駅(初宿) 江戸四宿の一つ

寛永元年(1624)三代将軍家光によって、日光に東照宮が建立され、翌2年に、日光道中の初宿として千住宿が指定された。
それ以後は多くの大名が日光参脂の道中ここに泊まり、
また参勤交代が制定されてされてからはさらに大名の往来が激しくなり、宿場町としてめざましい発展をとげた。 
この宿場とは、元来一般旅行者の便利を考えたっものではなく、
大名たちの旅行のために宿泊施設や荷物輸送の人や馬を提供するための駅であった。
したがってなにごとも 公家・武士階級に優先で しかも経費の負担が軽くすむように宿賃は一般の半額以下であったし、
宿場で用意した人や馬が不足のときは助郷や加助郷で付近の農家から無賃で借り出した。

   
 1 松尾芭蕉 奥の細道
     矢立初の碑
2 一里塚
3 高札場(掲示板)
4 伝馬の馬継ぎ場
5 問屋場 貫目改所
6 脇本陣
7 本陣
8 絵馬屋
昔の道は、荒川放水路できられてしまいましたが、
千住5丁目から左へ大きく曲がって今の千住新橋の下のあたりをななめに通り梅田へと進んでいました

 千住宿
千住宿は、宿とやっちゃ場が混在しているのか特色
現代の日光街道は、千住大橋を渡ると左にカーブしているが、旧日光街道はそのまま直進している細い道。
*千住南組:小塚原(荒川区南千住)
*千住中組:
千住大橋から千住まで(橋戸町、河原町、仲町)
*千住北組:足立区千住1-5丁目
もともとの宿場は、旧足立区役所のあるあたりから先 荒川の土手の手前
實永2年(1625)千住1-5丁目の千住北組が千住宿として指定され、本陣もここに有ったが、
後に万治元年(1658)~寛文元年(1661)に小塚原など5町が加わった。


千住宿には、日光街道のほかに、水戸佐倉道(陸前浜街道)・下妻道と多くの道が集まっているので、参勤交代の大名も64家と、かなりの数が通過したり、本陣で着替えたりする。また川原町には近隣近在からの野菜を扱う市場や、周辺からの米を扱う陸付(おかづき)米穀問屋もあり、天保14年1843の調査では、人口が9956人、家数は2370軒と四宿の内で最大。宿場町として、また周辺農村の物資集散地として、その繁栄には めざましいものがありました。
千住のあたりは 早くから川筋を中心として
物資の集散がさかんな土地で、青物市場ができたのも 1591(天正19)年で、まだ江戸は開かれていない。

今から400年前 1594(文禄3)年 荒川(隅田川)で、初めて橋がかけられたのが千住大橋
日光東照宮大造営がつくられてからは、日光街道を日光道中とよぶようになり、宇都宮から北が奥州街道と定められました。日光街道は江戸時代から五街道の一つとして重要な交通路となり、
千住は日本橋から日光へ向けて続く日光街道の初宿に指定されました 
この
町千住は、この
大橋と街道によって ますますひらけ、栄えていきました

  
現代の北千住駅は 今も東京の東北ブロックのターミナル
千住の街はめまぐるしく変わっています
今でも残る旧日光街道 幅五間(≒9m)。ショッピングストリート、宿場の賑わいは忘れていません
千住で暮らしに トポスは、はずせない。昔からのだんごや大福も旨い。飲み屋横丁は夕方から賑わう。
金蔵寺近くには、しずかな通りではあるが、蔵の喫茶店あり おしゃれなバーや居酒屋 おいしいケーキ屋さんありでいい店が多い。
北千住駅前通りはいあいかわらず賑やか。イトーヨーカドーの1号店千住店も改装して食品の充実度UP。近頃ころっけ屋さんが、好評 
千住1丁目~2丁目は、美容院の数の多さに住人も首をかしげる。これも さかのぼってみると 不思議ではないかもしれない。
江戸の頃1827(文政10)年 この狭い千住宿に 髪結い床39軒 この他に髪結い職人が32名いたそうです。これは 江戸に入る旅人が身だしなみを整えたというのがひとつの要因。旅人は千住通って 女を磨いたわけです。千住には こんな話が山ほどあります。

 江戸 千住宿から400年後の今日までさまざま出来事がありました
昭和20年東京大空襲で足立区・千住はの広範囲を焼失してしまいました
千住宿の名残りをほとんど手つかずのまま保っていたであろう古い千住の町並みは消えてしまう
そんなわけで 千住の街をただ歩くだけでは、どこにでもある商店街と住宅街

足立区・千住の変貌はすさまじいものがありますが、今なお昔の姿をとどめているものがあります。
 旧道は 当時の道幅が残っているので、歩くと時折、ふと時をさかのぼってしまう錯覚を覚えてしまうかもしれません

ちょと前までは馬車や牛車、大八車、ちんちん電車がゆきかっていた日光街道も
 現在ではトラックやタクシーの渋滞の名所、千住宿本陣近くはJR、地下鉄と都心への入口 北千住駅。 
歴史や文化、下町らしさ、川に囲まれた、といった千住ならではの“粋”を探検してみませんか

千住は 調べれば調べるほど面白い町です


   千住宿と芭蕉の旅立ち

 日本人が世界に誇る 江戸時代の俳人芭蕉さん。 日本文学史上最高傑作とうたわれる「奥の細道」
奥羽 北陸を通って岐阜の大垣までの
150日、2400キロ大紀行 元禄2年3月27日 芭蕉46歳


 
皆と深川から舟に乗り 千住で上がる 富士をかすかに望み 二度とは帰れない江戸をはるかにふりかえり
 一同に別れをつげる 
前途はるかな旅路 旅立ちの一句に思いを託す
 人々に見送られ 芭蕉は門人曾良を伴い 生涯をかけた俳諧の道みちのくの旅へと第一歩を踏み出す
かなしい心できくからか 鳥の声もなみなぐんでいるようです 魚の目も、なみだに曇っているかに見えます


   
 千住で舟を下りる芭蕉と曾良
小杉放庵筆
 高札場(掲示板)
千住宿と芭蕉
 江戸四宿(ししゅく)の一つとして、一万人近くの人口と2千数百軒の家屋と、最大規模を誇ったのが千住宿。宿場として、近郊農村からの物資集散地として繁栄した千住のようすを、ここから旅立った松尾芭蕉と探ってみましょう。
都内北部にある荒川(現隅田川)の千住大橋は奥の細道の出発点で、日光へ向かう旧日光街道のはじまりでもある
 千じゆと云う所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にうさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ「行く春や鳥啼魚の目は泪」  是を矢立の初として行道なをすゝまず。かの有名な「奥の細道」の一節。1689(元禄2)年春、舟をあがったのは、千住大橋の南岸なのか北岸なのか。南岸(荒川区側)の素盞雄神社には芭蕉句碑が、北岸(足立区側)の足立区立大橋公園内には「おくのほそ道矢立初の碑」が、それぞれ建てられている。「矢立初の碑」によれば、千住の船着場が古くからこの地にあったからということのようだ。。千住大橋は1594(文禄3)年に架けられた都内でももっとも歴史の古い橋の一つである。芭蕉が旅立ったときには、もう60年余が経っていた事になる。

千住の高札(掲示板)は 高さ3.6m 幅5.4m 日光道中にふさわしい 桧材のりっぱなものでした

 現在の日光街道は、千住大橋を渡ると左にカーブしているが、旧日光街道はそのまま直進している細い道。もともとの宿場は、旧足立区役所のあたりから先、荒川の土手の手前まで 現千住1丁目~5丁目。1658(万治元)年には、日本橋寄りの掃部宿(現仲町)・川原町(現河原町)・橋戸町を、2年後には千住大橋南側の小塚原町(こづかはら)・中村町(現南千住)を加え、総称して千住宿とよんだ。
千住宿には、日光街道のほかに、水戸佐倉道(陸前浜街道)・下妻道と多くの道が集まっているので、参勤交代の大名も64家と、かなりの数が通過したり、本陣で着がえをしたりする。また川原町には近郷近在からの野菜を扱う市場や、周辺からの米を扱う陸付米穀問屋もあり、1843(天保14)年の調査では、人工が9956人、家数は2370軒と四宿の内で最大。宿場町として、また周辺農村の物資集散地として、、その繁栄にはめざましいものがありました。
 
 

江戸千住宿(日光街道)古図
 
 江戸へ  2里8町
≒8.6KM
 草加へ  2里8町
≒8.6KM
 宿内人別  9556人
 総家数  2370軒
 本陣  1軒
 脇本陣  1軒
 旅籠屋  55軒
 高札場  1軒
 人馬つなぎ問屋場  1軒
 荷物貫目改所  1軒
日光道中宿村大概帳による
 
昔の道は、荒川放水路できられてしまいましたが、
千住5丁目から左へ大きく曲がって今の千住新橋の下のあたりをななめに通り梅田へと進んでいました


旧足立区役所前の荒川水除堤から北の千住宿内には、問屋場、本陣、はたご屋が並び
表通りは、店が現在も残っている神社や寺はすべて町なみの外側になっていました


宿場には、大名、旅人のとまる本陣やはたご屋、荷物を運搬する人や馬がおかれていました。
また、大名たちの荷物をつぎの宿場(草加宿、新宿)まで運ばなければならないきまりがありましたので、
宿場には、これらの世話をしている問屋場とよばれる役場がありました

 

江戸幕府と五街道
 江戸幕府による参勤交代や商品経済の進展とともに、幕府は江戸各方面に通じる五街道や脇街道を整備し、宿場には宿泊のための本陣旅籠屋人馬の継立て・飛脚業務をあつかう問屋場などをもうけて、通行者の便をはかった。参勤交代の武士はもちろん、寺社参詣・名所見物・湯治などの庶民の旅もしだいにふえていった。人と物との流れが活発になるなかで、城下町・港町・門前町・宿場町など、さまざまな性格の都市が各地荷うまれた。なかでも、上方の京都・大阪・江戸は、三都とよばれて発達した。

参勤交代・・江戸幕府が権力の確立にあたってもっとも警戒したのは、大名の動向であった。
大名とは一万石以上の領地をもち、将軍から領地を認められた武将である。その支配機構を藩といい、幕府の制度にいながらも、それぞれ独自の支配をおこなっていた。幕府にとって大名の財力と軍事力とをどのようにおさえるかは、きわめて重要な課題であった。総数260~270家をかぞえる大名:親藩・譜代・外様にわけられるが、そのなかで幕府がもっとも危険視したのは、外様大名であった。幕府は、大名をとりしまるため、外様大名は江戸から遠い地方へ、親藩・譜代大名はえどのまわりや重要な地方に配置した。とくに1615(元和元)年、大阪の役で豊臣氏を滅ぼすと1615年武家諸法度を発して、違反するものは厳しい処分でのぞんだ。三代将軍家光は、1635年参勤交代を定め、幕府の支配体制を固めた.1640年 参勤交代が制度化された頃、旗本や御家人とその家族・奉公人、彼らの生活を支える職人と商人で江戸は当時の世界でもまれな大都市となったのです
五街道・・・・・日本橋を基点として東海道・中仙道・甲州街道・奥州街道・日光街道
江戸四宿・・・千住・品川・内藤新宿・板橋
三都・・・・・・・京都(伝統と文化の町)・大阪(天下の台所)・江戸(新興の政治都市)
江戸幕府の成立
 
江戸城本丸
江戸図屏風 林家蔵
 
徳川家康は、豊臣政権下では、五大老の筆頭の地位にあり、江戸を本拠地にして関東を支配し 秀吉の死後、家康は1600(慶長5)年の関が原の戦いで勝利し、全国的な交通・通信・貨幣制度の整備に着手し、1603(慶長8)年には家康は征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開いた。これから徳川氏15代、265年にわたる江戸時代が展開することになる。
 
東海道五十三次「日本橋」安藤広重
橋のたもとには、橋向こうの魚市で買った
魚をいれた盤台をかついだ魚売りたちがいる
そこに大名行列がやってくる
 
お江
戸日本橋七つ立ち 初上り
行列そろえて アレワイサノサ
こちゃ高輪 夜明けてちょうちん消す
チャエ コチャエ

七つはいまの午前四時、江戸時代の旅はずいぶん早立ちである。
高輪のあたりで夜が明けるのでちょうちんの明かりを消し、
最初の品川宿をでると先を急がなければならない。
これから五十三の宿場をたどって、ふつうの旅だと、十四日で京都に着く。



足立と川と家康の戦い
 足立区にとって、は、生みの親であり、育ての親でもあったが、ひとたびあれると、それは仕末におえないものとなった。足立区の発展は、この川との戦いとのうえで築かれてきたといってよもい。

昔、
関東の水系は、東は霞ヶ浦一帯の一大湖沼に注ぎ、南に流れるものは、ほとんど東京湾に流れ込んでいた。東に流れていくものに、鬼怒川、小貝川があり、南に流れるものには、渡良瀬川、利根川、荒川などがあった。しかし、江戸時代以前の関東は未開発のところが多く、この南下する河川は年々洪水を起こし、流れが変わるとそこに沼や沢がいたるところでにできて、関東平野の大部分を広大な不毛の地としていた。

1590(天正8)年、
豊臣秀吉は、小田原の北条氏を滅ぼし、全国を統一すると、徳川家康はこの関東八か国を与えるという話があった。これを聞いた徳川一党は、関東の水害と、不毛の地であると不服で反対したといわれる。しかし、家康の新任が厚かった伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)の推進によって、江戸へ入府することになったという。伊奈氏は土木工事を得意とし、江戸につくとすぐその足で利根川を視察し、地勢と水脈をつぶさに研究して、当時ととすれば前代未聞の大構想をうちたてた。忠次(たたつぐ)その子忠正(ただまさ)、忠次に受け継がれ、関東平野が開発された。65年目 関東を流れる川すっかりようすがかわってしまい、関東の水害も少なくなった。

その結果、新田の開発はおおいに進み、10万石の大増産に成功したのである。しかし伊奈氏によるこの
河川改修工事がすべて成功したわけでなく、荒川の改修工事では江戸に大洪水をひきこしたりすることもあった。当時の足立区は、ほとんどが低湿地で洪水にささられ、定住して農耕をいとなむのは不適な土地であったが、この新田開発につれて、しだいに定住者がふえていったものと思われる。

江戸幕府と千住宿
 徳川家康は 小田原城攻めにより、1590年に後北条氏がほろびると、豊臣秀吉に関東6ヶ国を与えられ、足立周辺は徳川氏直接支配するようになりました。。新しく城下町に決めた江戸は、北条氏時代は 小さな出城があったところで、そまつな館があるにすぎなぎなかった 城のすぐ下の、いまの日比谷公園あたりまでは海がはいりこんでいて、沖にはクジラが泳ぐのが見えたと言う寂しい村であったといいます。家康が江戸にきて4年目 文禄3年1594年 初代関東郡代伊奈忠次(いなただつぐ)により 千住大橋が架けられています。この大橋を起点として奥州街道は江戸五街道の一つとして重要な交通路になりました。千住は人馬の継場村となり、人家もふえ、1598(慶長三)年に石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね)が元木から千住仲町にきて開拓し、荒川に水除提を築き掃部提)、1617(元和3)年掃部新田を開いた。

徳川家康(1616年没)を祀う 
元和3年3月、日光に東照社が施工すると、続いて行われた諸堂宇造営に寄進夫役する諸大名の往還が激しくなり、このため奥州街道を本街道に整備して、その便をはかったが、このさい千住宿は、新に区画の整理して宿駅の整備を整え、1625(寛永2)年8月、駅制の改正とともに、日光道中初宿として定められた。日光廟の大造営は寛永13年まで続くが、この間、寛永12年には参勤交代の制が強化され、大名の往還がいっそうはげしくなり、千住は宿場町としてめざましい発展をとげた。
この宿場とは、一般旅行者の便利を考えたものではなく、こうした大名たちの旅行のために宿泊する宿を用意したり、荷物を運ぶ人馬を提供するために設けられたものであった。したがって、なにごとにつけても
公家や武士階級優先で、しかも経費の負担が軽くすむように大名行列の一行が泊まっても、その宿費は半額以下であったし、宿場で用意した人馬の数の不足の時は、助郷や加助郷がおこなわれ、付近の農家から人馬がかりだされた。
千住宿は 
日光道中最大の宿場となり、明治5年宿駅制が廃止されるまで、品川、板橋、内藤新宿とともに江戸四宿として栄えた。


 


千住大橋をわたった所で、国道4号線は左にやや曲がって北上するが、それと分かれてほぼ平行している道が旧日光・奥州道中。
千住大橋は 五街道のひとつ日光街道(奥州街道)の橋ということで特別扱いされたのかもしれない
橋の両側は、日光街道第一の宿場・千住宿である。今は手前の荒川区側を南千住、川向こうの足立区側を北千住と呼んでいる

日光街道は幅の広い幹線道路、国道4号線になっている。 400年後の今日までさまざまな出来事があり 宿場の雰囲気はだいぶ崩れているが、それでも 北千住側にはまだ旧街道に幕末期の伝馬屋敷が残ってる




大正末期の千住
江戸千住宿 貫目改所 問屋場 伝馬の馬継ぎ場 (足立史談 仲町長谷川浩平さんの貴重な写真)

千住1丁目 現区役所通り 手前が神田屋文具洋品店と稲垣葬儀社
区役所前の江川は昭和6年暗となり道路が拡幅されたが、江川と道路の挟まれていた家々は立退きとなった。
遠くに千寿第二小学校の長い屋根が見える 工事中のようである。郡役所は千住で初めての本格的西洋館2階建、千住っ子の自慢の一つであったという。


 
 千住年表

 千住宿は今の元町あたりにあった 元宿
 延歴 7年 
文治 5年

天正19年
文禄 3年
慶長 9年
慶長 3年

寛永 2年
寛永12年












明治 3年
明治 4年
  907
1189
1590
1591
1594
1604
1598
1624
1625
1635
1636
1657
1680
1689
1690

1716
1728
1735
1867

1870
1871  
 千寿の名が起こる
千住関屋に関所を設ける。関屋の地名のおこり
徳川家康 江戸城に入る
千住村で検地
千住大橋 架橋
千住宿に一里塚できる
石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね)が、掃部新田を開き、元和2年1616 荒川水除提築造
五人組制度は始まる

三代将軍家光が駅制をあらため 千住が日光道中初宿に指定される
参勤交代が定められる
日光東照宮大造営が完成
水戸藩主 徳川光圀(黄門さま)が大日本史の編集を始めた
徳川綱吉が文治政治を行う
松尾芭蕉 千住より奥の細道へ
元禄文化が栄える 井原西鶴 松尾芭蕉 近松門左衛門
19世紀のはじめごろ 化政文化が栄える 葛飾北斎(富嶽三十六景) 歌川広重(東海道五十三次)
千住に初めて寺子屋を開く
名倉重直開業
千住宿に毎朝市がたてられ五穀、野菜が売られる
15代将軍徳川慶喜が大政を奉還する
260年続いた 江戸幕府がほろび、武士の政治が終わる
千住宿の駅場が廃止された
千住宿は、東京府豊島郡千住駅南組 東京府足立郡千住駅北組、同中組となる



徳川家光は 日光東照社大造営を行い、寛永13年(1636)これの完成をみています。 

昔に旅人にとって 千住大橋を渡ることは江戸を去る第一歩であり、また江戸入りの第一歩であったようです
毎年4月になるとこの橋を通る人馬の数はおびただしかったようで
一つは日光東照宮に参列する 諸大名の一行である 4月17日が家康公の忌日であったのでこの前後に往来する行列が集中
二つには、この季節が諸大名の参勤交代期であったので、江戸入り殿様あり、帰国の殿ありで
この橋を通る諸侯は東北常総六十四家とあるから、日光参拝とからんで千住宿がごったがえしたことは想像されます
二代将軍秀忠、三代将軍家光、俳聖松尾芭蕉もこの千住宿を通りました

慶応4年4月11日未明黒木綿に小倉袴の旅姿でわずかの供廻りをつれてこの橋を渡ったのが最後の将軍
徳川慶喜公
上野大慈院から水戸をさしての謹慎の旅であった。そしてその後を追うように明治夜明けの風がふき流れたのでした




 
 錦絵や文学・映画にテレビのドラマの舞台になった千住。

水辺 橋 土手 路地 低いガード 警察 交番 駅 電車 商店街  町工場  昔も今も千住には「絵になる風景」があるらしい
映画では S28年「煙突の見える場所」 S42年「若者たち」もまた 千住を舞台にした庶民劇の名作。千住という所は地理的にも歴史的にも東京と地方の接点で、田舎から来た人々がひたむきに生きている”生活の場所”という印象があるようです。寅さん49作にも千住の吉田医院が登場。S54~H8/H13秋再スタートTBS 金八先生のロケ現場
鬼平犯科長。江戸川乱歩 高村薫のミステリーの千住の姿があった。 益田みず子の「わたしの東京物語」。そして芭蕉の奥の細道 正岡子規も千住にふれた紀行文があります、俳句 「行くに固より目的もなき旅一日の行程霞みて限りなき奥州街道直うして千住を離れたり」
広重・北斎の錦絵 三宿が家並を描写する作品が残すのに対し、千住宿では、千住大橋が題材として多くの風景画にその姿を止めているのも特長かもしれません

川に美しさと活気があったのは、流通が水運に頼っていた時代のこと。昭和30年代 高度成長期 工場外の外れ、黒い川と化学工場からの煙突からあがる黄色い煙と青物市場や皮革会社からのすえたにおい。 川は汚れは文学の舞台の創作意欲の対象ではなくなった。昭和60年危機を感じた市民がよって鮭の棲める川に戻そうとうんどうが始まり、やがて隅田川から悪臭が消え 現在では尾形船が復活し 水辺には 大規模な高層マンションが立ち並んでいます。