千住の地名の起こり
東京都足立区千住

千住の起源は古く 千余年のむかし、醍醐天皇の延喜年間(901~22)に始まると伝えられています

後鳥羽天皇の建久年間(1190~8)に鎌倉の武将源頼朝の一族によって関が作られ(関屋の里)
喜暦2年(1327)、新井図書政次というものが荒川で千手観音像を見つけたので、この地を千手(せんじゅ)とよんだという

足利将軍善政の愛妾「千寿の前」の出生地であるとこらから千寿(せんじゅ)とな名付けた

千葉氏が住んでいたので千葉住村といったのを、千住村というようになった

弘安二年卯年と記された古文書に 「千寿」という地名が記されていることから六百余年の昔 すでに千寿の文字を使っていたことがわかる。「千住」の名は 小石川、本郷、下谷などと友に「天正日記」に村落として書かれている

千住町は 寛永年間(1624~43)3代将軍家光のとき、日光廟の造営に際して日光道中の初宿と定められ
千住宿と改められたこれが当時の千住本宿五簡町である
その後 掃部塾の豊島郡小塚原、中村の二か町を加えて千住宿よよぶようになった

明治元年七月、武蔵知県事の支配となり、明治二年一月小菅県の管轄となった。
このころは、小塚原、中村を千住宿南組(南千住)
掃部宿一帯を千住宿中組、千住一丁目~五丁目までを千住宿北組とよんでいた。
毎時十一年十一月、郡区町村編成法により、南足立郡五丁目となり群役所が置かれた。
この際、千住南郡は豊島郡に編入され、千住はふたつに分かれた


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