千住物語
 此処は 元 ヤッチャバ跡
当時と同じ道幅5間の旧日光街道に面する千住河原町の両側はヤッチャバ(青果市場)の跡
やっちゃば・・・そのせりのかけ声の「ヤッチャ~」から、ヤッチャバの名が起こったといわれている


現在のやっちゃ場跡 やっちゃ場の歴史 ■やっちゃ場の文化  

●足立史談より
空襲に合わず昔の家並みが町並み保存で残っていたら 東京一の名所になっていただろうナと・・
昭和20年(1945年)3月9.10日の空襲では河原町の青果問屋、信三までが焼失、4月13日には旧道に面して焼け残った青果問屋群が全焼、焼け跡のなかで、葛西屋の鉄筋造りの建物だけが原型を保ってポツンと建っていた



足立の史話 日光街道を訪ねてより
●やっちゃばの石畳
sinの子供の頃  河原町の旧道にバナナが そして左右に ねぎの山があった
が、買えるわけでも、食べれるわけでもないので 全く興味はなかった
このヤッチャバ通り
江戸時代には、徳川家光~慶喜、伊能忠敬、芭蕉さん、伊達正宗,
日光参拝の大名行列 幕末には 武士が、刀を千住に預け 水戸へと駆け抜け
明治には ひどい混雑の中 森鴎外が軍服で お役所へかよった道という 
そんな中、ヤッチャバは 人・馬・大八車・牛車 野菜・米穀・川魚 
やっちゃ、やっちゃとでごった返す
此処はヤッチャバ跡 この道 ただの道ではなかったのは 確からしい



●やっちゃ場
千住市場の荷は 他市場に転売された したがって千住市場の朝は 早い 午前2時ともなれば店の前の広い石畳に 野菜が積み上げられられ、3時には取引が始まる 販売先は 神田、京橋、浜町、日本橋魚市場 千住大橋を登り江戸へ向かう賑わいは さぞかしと想像される
ヤッチャバも交通事情や社会的事情によって河原町から橋戸町へ移り、昭和54年9月17日に足立区の北西部、入り谷町に移っていきました
終戦後 現在は東京都中央卸売市場足立市場に発展解消し個人経営でなくなったが 実にその期間369年に及んだ

●建物

屋根の低い2階屋は、江戸から明治初期、高い建物は明治中頃から大正にかけての新築で出桁造り
青物・土物問屋が三十数軒本格的な繁栄期を迎え、夜明け前から大八車や牛車でごった返し出荷の荷の上げ下ろしで渋滞
市場といっても両側に並ぶ一軒一軒の問屋がそれぞれ市場で、その店先でそれぞれせりが行われた 。当時、道路から家屋までは広く空地になり、そこに御影石が敷きつめられ、スノコが積まれ、いわば青空市場の連続であったわけで、、一軒一軒の問屋の店先でそれぞれせりが行なわれた

●八百屋のスタイル
白シャツ、パッチ、どんぶり腹掛け
ヤッチャヤッチャのせりの声が鳴り響く

葱、きゅうり、赤目、里芋、大根、山芋、たけのこ、クワイや蓮根の土物
明治初年 白菜、山東菜が中心になる


●荷主、仲買、八百屋集、投師、軽子、荷車が一斉に動き出す
道幅5間の旧日光街道の賑い

投師(なげし) 仲買人 千住でいち早く仕入れた品物を 他の市場へ売りさばく人
1923(大正12)調査によると千住の投師は 120人おり、販売先は 神田市場、京橋市場、浜町市場、日本橋魚市場
軽子 荷物を満載した投師の大八車が、江戸中心部へむかうため千住大橋の登りに差しかかると押しやが手伝う
市場の通りから大橋周辺に毎朝5,60人待機していた

●青果問屋 葛西屋(中島家)
2階の窓の左側端に、白文字で気と書いてあります。木のマークの「き」の字の棒が上方へ抜けていないのは、気を抜かないという洒落で、先祖に蓮屋喜兵衛、中島喜平などという人物がいたのでマークになったという




●やっちゃ場のおこり
やっちゃのおこりは 天正4年1576年 織田信長が安土城を築いたり 小田原 北条市が勢いをふるっていた時分、いつとはなく自家産や近くの小川でとれた川魚などを道端に並べたのが市場開設のはじまりのころといわれれ、江戸の初期から戦前にいたるまで”庶民の台所”として活気に満ちていた。
1594(文禄3年) 千住大橋が架けられると、野菜や川魚などの荷が増える
1616(元和2年) 掃部提も築かれ 人家も出来 商売がではじめ、露天の立売りからよしず張りの仮屋となり、本造りの店舗へと進む
1720(享保年間)神田・駒込とともに江戸の三市場の一つとなり、幕府御用市場となる

現在 河原町稲荷神社けい内には明治39年に建てられた千住青果市場開設330年記念碑がありますが、さかのぼって計算すると天正4年にはじめられたことになり、市場の働きは江戸時代に入ってからのことのようです。


●御用市場としてのヤッチャバ
江戸廻りに位置する足立区域は、徳川将軍家と深いつながり持っていました。将軍の狩場となっており、鷹狩や舟遊びなどで将軍が来訪しました。また江戸城の生活を支える地域として、千住の問屋からは 白魚が上納され、野菜などの生活物資が江戸城に供給されていました。

●幕府御用品ともなれば名誉なことではあったがなかなか厄介なところもあった
幕府から定市場として認められたが、冥加金(税)として青物川魚の上納を命じられた 青物は蓮根、くわい、芋類が主で、時には「わさび」を納めた記録もある  品物の吟味はもちろんだが その納品の行列も仰々しかった。羽織袴の問屋惣代が付き添い 荷物の上には「千住市場江戸納品御用札」木札を立て、江戸橋の御納屋までそろりそろり行列をつくって納めたものと言う この行列を横切ったものは 何人であろうと厳罰に処せられたとあるから正にお芋様々のお通りであった

●川魚問屋
千住は 荒川(隅田川)綾瀬川に近く、池や水田にめぐまれ、川魚の種類も多く、たくさんの川魚がとれました。千住の名産として、コイ、フナ、ウナギ、ドジョウ、ナマズがあり、これをあつかう問屋もかなりありました

●米穀問屋
江戸時代の千住の米穀問屋は、当初の、江戸の問屋と異なり日光道中沿いの村々など近郊で産出される地廻米を取り扱う問屋が中心でしたが、江戸時代後期には江戸市中の米穀問屋の仲間に入り、地元や周辺地域をはじめ全国の米も取り扱い、江戸米穀流通の一翼を担うようになっていました

●船運
鉄道やトラックの輸送が発達するまでは、物資の輸送は船運でした。江戸時代には千住宿の河岸場であった橋戸河岸があり、。千住宿には船を操る船頭職がいました、船頭たちに間で歌い込まれて知られているのが千住節(川越夜舟)、舟で運ばれた物資は橋戸河岸で陸揚げされ、千住宿の問屋や商店に運ばれました。取引された品物米穀、野菜、瀬戸内産の塩や伊万里や瀬戸物といった陶器など多岐にわたり、様々な物資の流通で賑わいました

●いなせな河原町の名物 紙製のきざみ煙草入
江戸時代から昭和初めまで続いた特産品で 和紙に油をひき漆でかためたもの、角形、円形、巾着形といろいろな形があったが、道中客はもちろん、通人仲間では「千住」の名で愛用され、殊に神仏参詣のおりには 革製品がいみきらわれたので、信心客の腰にはかかせない品であった


■現在のやっちゃ場跡

千住ねぎ・・千住市場から出回ったねぎのこと(根深ねぎ・白ねぎ

日本橋から7km
国道4号線 千住大橋を渡り
右に
 東京都中央卸売市場足立市場
細い道が 旧日光街道 元やっちゃば
早朝のせりのヤッチャの声が騒がしく、大八車の往来でこみあった市場も
昭和54年 魚専門の市場となり
河原町の問屋町は 道沿いに数件営業




町の鎮守河原稲荷神社の鏡内に 千住市場開設三百三十年記念碑(明治39年建設)がある
●元やっちゃば地域には 当時の問屋等の名称や様子の”木の看板”がかけられてる

●千住宿歴史プチテラス・・足立区生涯学習情報提供システムより

この蔵は 千住四丁目の元地漉紙屋を営んでいた横山家より 平成4年に足立区へ1830(天保元)年の土蔵が寄与されました
土蔵と歴史の生きる町づくりのために千住の旧道沿いに 移築し蔵の内部をギャラリーに、周囲には趣のある前庭・内庭を造成

この蔵には 江戸末期から明治・大正にかけての生活用具が保存され、貴重な資料となっています
やっちゃば展、また区民のギャラリーとして区民に開放され、利用されています
問いあわせ・・(財)足立区まちづくり公社 

●やっちゃばの看板の仕掛人・・岡本行央さん

看板は 和紙に墨で書き木に貼り付けるという素朴なものです
毎日のメンテナンスはかかせません

岡本さんの夢計画
千住の入口を示す巨大なのモニュメント千を建てる

1.やっちゃ場に因み、千両、万両の植木で通リを飾る
2.道路を御影石に先人の足跡を彫み埋め込む。
  芭蕉、鬼兵、黄門様など
3.やっちゃ場の立体模型を街道添いに設置
4.日光道中と四号国道の分岐点に

●手づくりの看板
今 当地に昔を偲び、問屋及び商店名の看板を建てた.又 町の
南北入口の大看板にやっちゃ場の由来を書き留めた

●千住大橋は 大橋と呼ばれていた

千住大はしは 大川の始めて懸かった橋で 大橋と言われ,60年後に両国橋が懸り大橋と言われた為千住がついた.隅田川にある橋でにごりがつかないのは,古くは千住大はしのみだった
この板は 樅の木です
やっちゃ場に嫁ぐ娘のために 裏山の大きな木で張り板を作る


●御休憩
残念ながら 空襲や震災で 昔日の面影は ほとんどしのぶことは できませんが ココで よっこいしょとすわれば やっちゃ~の声やねぎの山やバナナのニオイが漂ってきそうな そんな休憩所です

●2000年7月・・やっちゃ場の掲示板

●千住絵図・・江戸時代の復元

千住大橋の部材で彫られた 恵比寿様
家康が 江戸の入って3年目に架けたと言われる
千住の彫刻家 富岡芳堂作/画:増谷 秀竹

●やっちゃばの風景を再現

画:増谷秀竹

この角 左(西方)に折れると、
西新井大師への道への入口であり
町の鎮守 河原稲荷神社に達します


●千住青物市場創立三百三十年祭記念碑
高さ4メートル余りの大仙台石に「千住青物市場創立三百三十年祭記念碑」明治39年5月建立
裏面には「浅草北口睦県建立」とある
●河原町稲荷神社
旧大師道から入る  やっちゃ場の鎮守さま
この神様は食べ物の神、商売繁盛の神、出世の神様で、千住市場の守護神でありました

千貫神輿(区登録文化財)
9月15・16日は千住の祭り 千住には15の神社がある。昭和50年に7年ぶりで日の目を見たという
千住切っての大神輿。明治3年完成 450貫と伝えられている
江戸時代の社殿は戦災で焼失し、現在の権現造の社殿は昭和41年完成
総高51cmという小型だが、天保5年(1834年)の神道厨子二基があり
精巧を極めた彫刻がほどこされていて珍しい。(区登録文化財)

稲荷神社はヤッチャバをひかえ何でも大きく力強い



link東京都中央卸売市場足立市場
昭和20年2月、現在の千住橋戸町に青果物と水産物を併設した中央卸売市場として開設。
その後都市化の進展に伴い、取扱量が増加したこともあって昭和54年9月青果部門を北足立市場に分離、現在は水産物専門の市場として開設している。


往時は参拾数軒の青物問屋が軒を連ね毎朝数千人の買出人でごった返していた所
江戸、東京の野菜の一大供給地



千住青物市場史

1576 天正4年 創設 信長時代
荒川を船で往来したにはじまる
1720 神田、駒込、千住は三大市場といわれる
幕府の御用市場となる
1594 文禄3年 千住大橋が掛渡された。秀吉時代 1815 文化12年 千住の酒合戦
千住宿1丁目飛脚宿中屋の隠居宅
隠居六右衛文の還暦祝に行われた
主催したのは河原町の住人で、画家、俳人建部巣兆である
立会人には当代一流の文人達が 参加している
1位 9升1合 千住宿松勘
江戸市中の大評判となる
1603
1604
慶長8年 徳川家康が江戸に幕府を開いた
この辺一帯を河原町と称した
1879 明治12年 東京府の許可を経て、その営業は益々隆昌を招いた
1647 正保 千住大橋が掛替られた
三代家光時代
東照宮造営のため往来がさかんになり
材を惜しまず立派な橋を建造した
1945 昭和20年 終戦後 現在は東京都中央卸売市場足立市場に発展解消し個人経営でなくなったが実にその期間369年に及んだ。




やっちゃ場の文化

● 千住の俳人:建部巣兆
● 千住の彫刻家:富岡芳堂

● やっちゃばの俳人:為成菖蒲園

高浜虚子に師事し、一筋にホトドギスの俳徒として生涯を終わる
為成菖蒲園(本名 善太郎)東京都足立区千住河原町
明冶四〇年七月十六日生 昭和四八年七月二三日逝去 六六歳

昭和18年 千住へ高濱虚子を招き 句会が行なわれていた
やっちゃば句会

・菜屑掃く箒の先の春日かな
・永き日の古き歴史の市場かな
・外套をぬげば走り来持ちくれぬ
・今日はしも社頭に木の芽伸ぶことよ
・やっちゃばに飛び現はれし蝶は白

高濱虚子


千寿第二小学校在学中、宝井青波の「灯」とい俳誌を手伝ったことから俳句に興味を持ちはじめ、岡本機柳の門を叩き手ほどきを受けた。天舟子の号で「枯野」を投句していた。大正十年頃よりホトトギスの読者となり高浜虚子に師事し、一筋にホトドギスの俳徒として生涯を終わる
旧宿場町千住に育ち、こよなく千住を愛し、やっちゃば(青果市場)に生き、市場土間を、市場妻を、市場を詠じ続けた特異な俳人、庶民性豊かな文化人であった。
いつも着物で兵児帯をぐるぐる巻きにして、お相撲さんのような草履をはき、頭髪は 黒々として、ノソリノソリと歩く 大男というにふさわしい風貌。市場のせり売りで鍛えられたか、嗄がれた声で「ソーブエン」と尻上がりの句会での名乗りは魁偉であり、一杯に開いた双手をまともに打ち合わせ最後まで止めない大きな拍手、写真撮影には 必ずといいいいほど主体の隣りに立つ。ぶっきら棒だが、明るく笑顔を絶やさなかった。氏のある処常に 哄笑が湧き、俳人菖蒲園としての面目を発揮して誰にも親しまれた。

高浜虚子と菖蒲園
・大正十年ころよりのホトトギスの読者となる
・大正十五年 高浜虚子・池内たけしの指導を受ける。昭和十九年ホトトギス同人に推薦される
・昭和二年初めて虚子選に入る
・昭和七年池内たけし(虚子甥)を主宰「欅」創刊と同時に読者となる。堀切菖蒲園にたけしと吟行した折
「菖蒲園」の雅号をつけて戴く
・浅草探勝会等虚子選の句会に参加し、潮花句会や千住句会などを指導し亦、市場関係の人々を集めて
やっちゃば句会(虚子命名)を創めた
・昭和十八年四月二十日には 大喜青果市場に虚子先生のご来駕をいただき句会をもつ
この時の虚子先生の句は半切に書いて戴き保存されている。     他
・昭和十九年第二次世界大戦により「欅」休刊となる
・昭和二九年「欅」を高橋春灯徒と共に復刊し その編集にたずさわると共にホトトギスに意欲的に投句を続ける
虚子が戦時中信州小諸に疎開していた折、東京下町住の俳人連の應援で、なにかと物資の補給を受けたことがあった。中でも大喜主人の菖蒲園は大変貢献していた。
ホトトギス・子規から虚子へ
ホトトギスは鳴くときに口中の紅色が 鮮やかに現われ、泣声も血を吐いてい苦しんでいるように聞こえる。正岡は 子規と号し、結核で血を吐きながら俳句を作り続けた。
俳句雑誌「ほととぎす」は 明治三〇年 正岡子規の友人柳原極堂により刊行され、明治三一年高浜虚子へと受け継がれ 三五年にはカタカナの表記。昭和初期には 俳壇の主流となり 昭和二六年には 高濱年尾が主宰 百年以上、一〇〇〇号をこえる歴史を刻む